蹴球から始まる乱れた連想

 んで何となく蹴球について考えていたらやたらとルサンチマンな文章を書いてしまっていた。同じようなことを考えていない人には多少見苦しいと思われるので読みたい人だけ読んでください。サッカー好きな人、運動するのに迷いを持たない人は読まないで下さい(笑)。
 蹴球。好き嫌いは別にして、確実に俺と相性が悪いものランキングのそれなりに上位に名を連ねる。多分アメリカ人がサッカー好きじゃないのと同じような理由で俺はサッカーがよくわからないんである。まず観る分に、どう楽しめばいいのかよくわからない。点が入ればそりゃ面白い。でも3−0とかになっちゃったらなんかもうゲームが決まったように思えて見る気が失せる。たまに素人でもわかるようなスーパープレーがあったらそりゃ面白い。でも常にそんなスーパープレイが出まくるなんて事はなく、普通にボール回しをしている時のフィールディングとかの奥深さがさっぱりわからないために、見ている時間の大半がぼやーっと過ぎてしまう。
 ではやる方ではどうか。そっちはそんなに嫌いではない、というかむしろ楽しいと思う。お子様の頃は校庭でよくやっていたし。が、何しろ俺はセンスがなさすぎた。シュートできないからフォワード無理、ドリブル下手だからミッドフィルダー無理、ボール怖いからキーパー無理、というわけでいつもディフェンダーだった。運動神経のいい友人たちがゴールを決めるのを見て、あんなふうに出来たら楽しそうだなあと思っていた。んで結局バスケに変えた。こっちも、というか運動全般相性が良くないことがこのあたりから少しずつわかってきたのだが(笑)、こっちの方が水は合った。サッカーのゴールネットを揺らす感覚を味わえなかった空白が、バスケのシュートを決めた時の「バスッ」とか「シュパッ」ていうような音で埋められていったような気がする。多分俺はわかりやすい手ごたえが欲しかったんだと思う。サッカーのディフェンダーにそれを見出せるほど俺はセンスもなかったし大人でもなかったんだろう。そしてディフェンダーの手ごたえがわからぬまま、ゴール以外の楽しみ方を知らぬまま、「キャプテン翼」も読まぬまま、俺は成長してしまってフットサルの誘いに頭を悩ませている。サッカーコンプレックスに頭を悩ませている。まあ別にガチ勝負じゃないだろうし俺の腕前なんかハッキリ言って相当どうでもいいのは間違いないのでこういう悩みは無駄なのだが、何となあーく「おう、やるやるー」と気軽に言えない運動マイノリティの小さな憂鬱。

 そんなことを考えていて、ふと、俺に居場所を与えてくれたのは音楽だったのかもしれないと思った。自分が拠って立つもの、これなら自分を受け入れてくれるというもの、周りに自分の旗印としてかざせるもの。小学校の時は何だかんだで勉強がそれだった気がする。でも中学受験を経てレベルが底上げされてからは、今までの旗は役に立たない。そんな時に音楽に触れたのは幸運だったと思う。ギターに初めて触れて、恐る恐る練習し始めたのが中2の春。教えてくれた人がいい先生だったということもあるが、ギターはやった分だけ上手くなっていった。勉強以外で、こういう風に自分の努力(なんて大袈裟なもんでもないけど)に何かが応えてくれたのは初めてだったかもしれん。それに付随して深く音楽を聴くようになっていったけど、そこには想像以上に色々な音、人間がいた。びびるくらいカッコいいやつもいるし、笑っちゃうくらいダサいやつもいるし、恐ろしく頭が切れるやつもいれば完全にアホなやつもいるし、明らかにイッちゃってるやつもいれば俺と同じようなやつもいる。それぞれが好き勝手に色んな音を鳴らしている。どんなやつでもここにはいていいんだという広さがある(まあ自分がやるとなると、いさせてやるから後はお前が頑張れよというしんどさもあるけどね)。思春期っつう大きな時期に、ずいぶんありがたいものにくるまれて育ったのであるなあと、今になって実感する。