エドウィン・マルハウス あるアメリカ作家の生と死

エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死

エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死

 遅ればせながら書きたくなったので感想アップ。ミルハウザー様の記念すべきデビュー作でございます。10歳で「非凡な才能の手になる作品」と評された作品を書き、11歳でその生涯を終えた作家エドウィン・マルハウスの人生を、その親友であるジェフリー・カートライトが11歳で伝記として描いた、という面白い設定の長編です。方々に後のミルハウザー作品にも見られるような要素が伺えるけど、彼の作品の中では一番物語、プロットが強い部類かと。
 以下ネタバレを含むので畳みます。これから読もうとしている方はこれ以降を読まないで下さい、間違いなく楽しみが減りますんで。
 ここからネタバレ感想です。

 ジェフリーは、多分エドウィンの生涯を自分の「作品」として見ていたんだと思う。あのラストは彼の人生を作品として完成させようとした結果なんじゃないかなと。それを裏付ける要素は結構作中にあらわれている。例えばエドウィンの、恋愛感情にも似た興味対象への執着。それはまずエドワード・ペンに対しての興味としてまず描かれて、次にはローズ・ドーンへの身を削るような恋愛として登場し、その後にはアーノルド・ハセルストロームとの友情に移り変わるけども、ここでエドウィンはその興味対象を模倣するかのように彼らに同調する。そして彼らがエドウィンの人生からいなくなった時、彼は「まんが」の製作にかかる。それへの没頭の様子は、ジェフリー自身が示すように、まるで愛する対象が人から作品へ移ったかと思えるくらい。でも、その没頭具合は、そのままジェフリーのエドウィンに対する関心とパラレルなんだよな。そしてエドウィンは彼らの事を「まんが」の中に象徴的に織り込むのに対し、ジェフリーはエドウィンの伝記を書くというやり方で興味対象を作品という形に結実させる。赤ん坊の時の初対面からエドウィンの生涯を記憶していこうと決めたジェフリーの方が偏執的なくらい。ここで考慮に入れておきたいのが、その興味対象は主に死などの形で完結している、ということ。ペンはどこかへいなくなってしまうし、ローズとアーノルドは悲劇的な死を迎えるわけだけど、ジェフリーの中でその死、消滅が物語の結末として捉えられていたのは間違いない。それを裏付けるのが、第一部の最後に書かれたジェフリーの、「彼の人生が一つの伝記であることを、言い換えれば、始まりがあり、中間があり、終わりがある一つのプロットであることを彼に気づかせた」「厳密に言うなら、君(エドウィン)の人生が終わらないかぎり、それを始まりがあり、中間があり、終わりがある一つのプロットと言うことはできない」という言葉だと思う。
 んじゃ、何でジェフリーはエドウィンが自らの寿命を全うすることを許さず、11歳という若さでその「作品」を完結させようとしたんだろうか?自分としては、それはエドウィンの「まんが」の完成度が生涯通してこれを超えられる作品をエドウィンが作れるのか疑問に思うくらいあまりに高かったこと、つまりこれから先はエドウィンの「作品」としての完成度が劣化する一途なのではないかと感じたからなんじゃないかと思う。それは、ジェフリーがその伝記の中で、「まんが」に関わる点以外においてエドウィンの「天才」を否定していることが深く関係している。少なくとも、ジェフリーの望む完璧なエドウィン像から、エドウィンは逸脱し続ける。その逸脱し続けるエドウィンが、ジェフリーが見ても紛れのない傑作である「まんが」を書いてしまったことで、ジェフリーの中に完璧な作品としてのエドウィンに最もふさわしい結末が見えてしまったんじゃないかなと。
 上で述べた「恋愛」が、時に一方通行であるところが面白い。エドウィンのローズに対する気持ちは、基本的には片思いだったわけだけど、ジェフリーのエドウィンに対する気持ちも結構片思いなのよね。エドウィンが自分に影響を与えた人物の名を挙げるときに、ペン、ローズ、アーノルドを挙げて、気まずい沈黙が流れたのに気づいて急いでジェフリーを付け足すとことか。こういう流れで見ると、歪んだ愛情と嫉妬の物語としても読めるなあ。
 あとエドウィンの「逸脱」に関してだけど、見方によっては、ジェフリーの伝記の中でのエドウィンは天才に見えないどころか、多少神経質ではあるが普通の子供に見えたりもする。むしろ天才的なのはジェフリーの方なんじゃないか、という気さえしてくる。頭のよさ、という観点からすれば間違いなくジェフリーの方がエドウィンのはるか上を行っているし。そこで出てくるのが、この「エドウィン・マルハウス」という小説のフィクション性。果たしてエドウィンという人物は存在したのか、という疑問が浮かび上がってくるのよね(まあ現実のレベルで考えてしまうと全てはミルハウザーの作り出した虚構なわけですが)。全てはジェフリーの捏造であり、この作品は彼の「自分は天才ではない」というコンプレックスと「自分は天才である」という矛盾した自信が複雑に入り混じった、異様な語りなのではないかと。この矛盾が、別の身近な天才の伝記という形を取ることで、見事に違和感なく実現しているところがすごい。第一級の「フィクション」と呼ぶにふさわしい名作だと思う。
 ミルハウザーのほとんどの作品は柴田さんが訳してるんだけど、この作品だけは岸本佐知子さんが訳者。でも、柴田さんが訳せばよかったのにとは全く思わなかった。この作品は岸本訳がかなりハマッていると思う。それは特に幼年期の部分で実感した。ここでは生まれたばかりのエドウィンが発した言葉とかが多く書かれている。そういう崩れた英語は日本語に直すとそのニュアンスが消えてしまいがちだけど、そこは自らが結構特殊な言語感覚を持っている岸本氏(笑)、さすがにうまいです。赤ん坊の頃のエドウィンとジェフリーが話す言葉が、もう思わず顔が緩むほどかわいいわけで、実際に自分に子供が出来たら子煩悩になっちまうのではないかという妄想を抱かせるほどニュアンスが伝わってきます。