黒い時計の旅

黒い時計の旅 (白水uブックス)

黒い時計の旅 (白水uブックス)

 現役のアメリカ人作家スティーヴ・エリクソンの、最高傑作に挙げる人も多いらしい長編。確かに好きか嫌いかは別として、これを読めばどういう作家か大体わかるような気がする。とかわかったような口をきく俺もエリクソン初体験(笑)。ざっと説明しようのないあらすじを説明すると、ヒトラーの私設官能小説家となった大男を中心に据えて、彼が生きるドイツが第二次大戦に勝った20世紀と、ある運命を背負う女性が生きる「本物」の20世紀を混ぜこぜに語る作品。以下ネタバレ含みます。
 読み終わって、すごい小説だったような気がしたのだが、どこかそうとも言い切れない何かが引っかかっている。それは単なる俺の好みかもしれないし、作品自体の力かもしれないし、答えは神のみぞ知るわけだが、少し思ったのはスケールというものに対する自分の好みについて。俺はある程度枠組が制限されている中でそれを超えるような爆発が起こるような作品が好きで、それは例えばミルハウザーであったりカルヴィーノであったり、ひょっとするとフォークナーもそれに入るかもしれないけど、このエリクソンの作品は枠組のレベルが何というか物理的にデカイ気がすんだよな。だって「20世紀」ですもの。存在しなかった20世紀とどうやら存在したらしい20世紀をこのような形でグチャグチャに混ぜて語り通す力量は相当なものだと思うが、逆に言えばその巨大な枠組を構成し得た時点でこれが大きなスケールの物語になることは当たり前っちゃ当たり前なわけで、そこんとこが何となく物足りなかったのかなあ。いや充分お腹一杯ではあるんですけど(笑)。
 あとがきでも少し語られてるが、やっぱりポストモダンな作品。新たな20世紀をフィクションの力を用いて構築し、それを現実の20世紀と交差させるようなやり方で描くという時点で、一応存在しているとされている現実が相対化されているのは間違いない。それをフィクションを用いてやるのがポストモダンな感じだなあと(フィクション以外でどうやるのか俺はよく知らんのだけど)。バニングがウィーンでデーニアを見かけた瞬間にもう一つの20世紀が枝分かれし、バニングは存在しなかった方の20世紀を生きるわけだが、彼はヒトラーのための官能小説という形でデーニア、そして現実の20世紀に干渉する。そしてデーニアは現実の20世紀を生きているのに、この20世紀には存在しないはずのバニングの存在(姿ではなく)を自覚し、干渉を受け、子供まで産む。しかもその二つの20世紀の絡み合いを書いているのは、作中での語り手はバニングであるものの結局は他ならぬエリクソンなわけであり、まあそんな次第で「現実」ってなんですか、本当にあるんですかという揺らぎが生じる。この辺のことを考えるために、比較対照としてディックの「高い城の男」も読んでみたいなあ。枢軸国側が勝ったら、という似た設定に基づいた作品がどういう違いを見せているのかが気になる。
 そしてフィクションというものが持つ力に対して過剰なまでの信頼を持っているというか、シニカルな姿勢があんまり見えないのも面白いなあと思う。この辺はミルハウザーとかともちょっとかぶるかな。彼らの作品では、想像力(≒創造力)がかなり権力を持っているんだよね。その働きで一つの世界が構築されてしまうとか。この作品では、それこそバニングがフィクションの力をもって一人の女性に子供まで産ませてしまうんだからなあ。でも「人間を作り出す」ということに対しては、フィクションの力が及び切らない結末に終わる事が多いのもまた興味深い。ミルハウザーの「ロバート・ヘレンディーンの発明」では主人公が妄想で理想の女の子を作り出すけど、その妄想はそれ自体が一人歩きしだして主人公の意のままにはならなくなるし、今作におけるデーニアの息子マークはやはり業を抱えていはするもののバニング依頼人への復讐のために望んだ姿とは異なるわけだし。これは「フランケンシュタイン」から脈々と続く伝統なんでしょうか。