ドイツ写真の現在展

 さて、まずはこっちから。これはドイツ分断からベルリンの壁崩壊を経て現在に至るまでに活動するドイツの写真家たちの作品をまとめて展示するという展覧会っす。色々なアプローチの作品がある中に、それらを一つに突き通すような軸が見えた気がして、とても面白かったっす。今回も感想がクソ長いので御覚悟を。
 まずはベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻。彼らの写真は、炭鉱などにある採掘塔などの建造物を一面に写した作品や、工場のある風景を遠目から写した作品などだった。まず彼らの写真を見て気づくのは、そこに一人も人が写っていないこと。ただ産業に関係した建物が画面全体、もしくは風景の中に佇むだけ。見ていると、工場やそこにある建造物がだんだんシュールな空想建築のように見えてくる。そんなわけで野又穫の絵を連想した。こういう写真は見ているだけで楽しいです(笑)。
 次はアンドレアス・グルスキー。この人の写真は、デジタル加工を時に使いつつ、香港の証券取引所やスペインの駅、巨大牧場などのマス状況を写したもの。これは面白かった。その光景の真偽は別にして、現代社会が戯画的なグロテスクさで強調されてて、なんか考えてしまう。特に広大な牧場の中一面に牛がうろついてる「グリーリー」という作品は、「ここにいる牛は全部人間が食っちゃうんだよなあ…」とか思ってイヤーな気分になりました(笑)。何頭、とか数で言われてもピンとこないけど、実際にその数を視覚で確認すると結構びびる。
 続いてミヒャエル・シュミット。この人はベルリンの壁による分断状況、壁崩壊後は東西統一をめぐるシリーズを撮っている人。ポートレイトや、新聞から取ってきたと思われる写真のコピー、ナチスの行進の写真などを一堂に並べているシリーズ「統・一」などがあったけど、正直この人の作品はわかりませんでした。自分には、被写体になっている人が歴史的に重要な人であったり有名人だったりするのか、それとも市井の人々なのかまず判別がつかないし、写真を見てどの場面・状況かわかるほどドイツの歴史や文化に詳しくない。要素から何か全体を覆うものが浮き上がってくるというような連作であったとしても、そもそも要素がどんなものかわからないなら全体にアクセスするのは難しいなあと。こねくり回せば何か言えそうな気もするが、無責任な物言いになりそうなのでやめときます。
 個人的に最大級のヒットだったのが、トーマス・デマンド。この人の写真はパッと見では無人の室内をただ写しているだけに見えるんだけど、実はその部屋は全て紙の模型で作られていて、しかもシチュエーションは殺人事件などをモチーフとしているらしいという、ちょっと捻ったもの。予備知識なしで見てもおそらく、この写真の「ニセモノくささ」はぼんやりと感じられる気がする。そこから、ミルハウザーの「Replicas」というエッセイを連想した。曰く、レプリカはオリジナルの完全な模倣を目指すものだが、それが達成されてしまってはそれはオリジナルになってしまってもはやレプリカでは無いので、レプリカは自分がレプリカであるということを示さねばならない、とかなんとか。そしてそこからオリジナルを脅かすレプリカ独自の価値が生まれて…という話になるのだが、この人の写真はその論理にピタリと当てはまるんじゃないかと。どことなく漂うニセモノくささが、奇妙な違和感、いないはずの人間の気配を見るものに感じさせる。そしてそれにモチーフなどの予備知識が加わることで、そのニセモノくささが死の気配としっかり結び付くんじゃないかなと思った。好きです。
 んでお次は、以前個展観に行ったヴォルフガング・ティルマンス。主に友人である若者たちを写した写真や静物写真、水の中に髪の毛をたらして走らせたような「フライシュヴィマー」シリーズの一作などが展示されてた。なんかなー、この人の写し出す世界に入りきれない印象は結局前回から変わらなかった。ユースカルチャーを描き出す作品に関しては、自分はそのカルチャーに強い内輪っぽさを感じるとどうしても好きになれないらしい。ファッションやゲイカルチャーなどは、その輪に入るための通過儀礼が厳しいし、そもそも自分は入れないので、どうにも作品にもコミットできません。それはオシャレな人とかゲイの人とかを嫌いとかそういう意味では全くなく、その「入れなさ」が苦手なだけだけど。だから彼の写真で一番好きなのは「フライシュヴィマー」シリーズなのです。コンコルドばっか撮ったやつとかもいいけど。
 ハンス=クリスティアン・シンクという人の作品も気に入った。この人は、公共事業で作られたけど結局あまり使われていない道路などの交通網の写真を撮っているのだけど、そこに打ち棄てられた孤独感だとかそこから派生する政府への批判などを強調するために撮っている、という感じはあんまりしないのが面白い。むしろ絵として美しいから撮っている感じ。実際水の上に浮かぶ橋の写真なんかでは泳ぐ白鳥をきっちり枠内に写してたりして、昔の風景画かよと(笑)。
 ハイディ・シュペッカーという人の写真は、「庭園にて」というシリーズの中から7点が選ばれて展示されていた。綺麗だったけど、いかんせん数が少なくこぢんまりしていたのであまり印象に残らなかったな。この人も写真をデジタル加工しているらしい。この展覧会では思った以上に、写真を加工するという形の表現を取る人が多かったな。
 そん次のベアテ・グーチョウっていう人の写真はその最たる例の一つで、一見普通の風景写真なんだけど、実は20〜30にも及ぶ複数のイメージを合成して一つの風景を作っているんだとか。この人も、さっきのトーマス・デマンドに近いアプローチかな。見ているうちに間違い探しをしている気分になります。「言われてみるとここは確かに不自然に見える…」とかいうように、合成だっていう情報に思いっ切り支配されながら観てました(笑)。
 んで今回のお目当てでもある、ロレッタ・ルックス。衣装を子供に着せて写真を撮り、それを別に作った背景と合成して、その後色などを調整するというやり方で作られた作品で、画面は荒地のような場所に一人子供が立つ、というような構成が多い。でもその子供が肌の質感や衣装の「着せられてる感じ」とかのおかげで、明らかに背景から浮き上がってて奇妙なんだよなあ。そのくせ全体に何故か調和は感じられるし、でもそう思ったとたん何か変なズレが気にかかってくるし…。でもこの写真が他の似たような加工を使って表現している作品と違うのは、他のは一見普通に見せようとしているところからズレの感覚を見るものに感じさせようとしているのに対して、この人の作品は一目でズレてるのがわかるっていうところ(笑)。とりあえず一目見ればわかります。オススメ。
 最後はリカルダ・ロッガンという人。東ドイツの廃墟から持ってきた家具などを、スタジオの中に元々の部屋の配置を再現する形で置き、それを写真に撮るという作品。あまり強く印象に残ってはいないのだけど、その置かれた家具のそぐわなさがなんか幽霊みたいだなあと思わんでもない。もうちと具体的に言えば、取り憑いてる場所ごと移動させられた地縛霊みたいな(笑)。
 通して見ると、写真の中での「現実」がもう相当相対化されてるんだなあという印象を受けた。それをデジタル技術の発展と結び付ける形でアートとして表現するには、確かに写真はうってつけの表現媒体っすね。それにドイツは、東西分断〜統一という現実に否が応でも直面せざるを得ないわけだし。まさに「ドイツ」「写真」の「現在」、という感じの展覧会でした。長くなったので、アウグスト・ザンダー展についてはまた後日。