好きな本について

 休止の挨拶の後にアップするというね。まあ最後の最後に、自分が好きなものについて少し書いて終わりにしようかと思います。とりあえず本から。

三つの小さな王国 (白水uブックス―海外小説の誘惑)

三つの小さな王国 (白水uブックス―海外小説の誘惑)

 小説の面白さを自分が自覚するように仕向けてくれたのは、やっぱりこの一冊だと思います。他ジャンル(アニメ、絵画)を小説(文字)で書く、という迂回をすることでその小説自体の特質を浮き彫りにし、その物語というもの自体も考察するこの作品集は、音楽や漫画に浸かっていた自分に、それらすべての表現媒体固有の面白さを気づかせてくれたんじゃないかと。恩すら感じますね(笑)。余談ですが、恩返しのつもりもあって卒論で扱ったものの正直あまりうまく言いたいことを言い切れなかった気もします。 ユーモアとペーソス、冷たさと優しさ、捻くれと愚直さ、などなど、ヴォネガットの小説には自分の心にすっと切り込んでくる二項対立間の往復がぎゅっと詰まっていると思うのですが、その中でもこの一冊はプロローグから泣けました。彼の持つまなざしと筆使いには、ずっと憧れ続けると思います。
見えない都市 (河出文庫)

見えない都市 (河出文庫)

 さっき小説が云々って書きましたけど、その極地のひとつがこれかなあと。もうなんかごちゃごちゃ言うより読んだほうが早いと言いたいです(笑)。ヴォネガットの作品にも言えますが、ばかばかしさとか荒唐無稽という扉からしか辿り着けない地平は間違いなくあると思います。
万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

 自分と他人の間には絶対に壊せない壁があって、自分のとこからは陰になって見えない部分も腐るほどあるし、そのくせ致命的な物事は大体その壁の陰に隠れているようにも思うわけですが、そこでシニシズムに陥ってもしょうがないわけで。そんなことを考えている時に読んだこの一冊は、珍しく感情移入してしまう作品でした。「わからない」ことにどうやって対峙するのか、という問題が眼前に突きつけられた時の、主人公の愚かしさや諦めや再生などが、自分にはどうにも人間的に映ります。
城 (新潮文庫)

城 (新潮文庫)

 先ほど書いたような壁の存在、ディスコミュニケーションなどについて、物語的に(ある意味ではストレートに)書くことに最も長けた作家はやっぱりこの人なんじゃないかなと。特にこの一冊は、コミュニケーションにおける思考の前提の根本的なズレが「城」という形をとり、それをめぐるやり取りを通して延々描かれる、絶望的に素敵過ぎる作品だと思います。同じく彼の手による「断食芸人」、もしくはメルヴィルの「バートルビィ」も自分は同様の読みをしてしまいます。そういう意味では、上の作品とは表裏のことを描いているようにも思えます。しっかしそう考えると、希望を描いた作品は絶望的なトーンで、絶望を描いた作品はユーモラスなのが面白いというか恐ろしいというか。
八月の光 (新潮文庫)

八月の光 (新潮文庫)

 どこから見ても味わえる作品、という印象です。深部に潜ればいくらでも深みにはまれるんですが、その表層部のテクストもどうしようもなく詩的で参りました。ちびちび読んでいる最中は、長大な散文詩を読んでいるような気分になったもんです。この作品は、リーナのおかげで最初と最後にガス抜きされてるのが個人的には好きですね(笑)。
蛇を踏む (文春文庫)

蛇を踏む (文春文庫)

 彼女の作品はすべての境界がぐずぐずに溶けて崩れていく感覚がとても心地よいので好きです。特にこの文庫に収録されている3作は、その柔らかさ、異様な気配、静けさ、色気、その他諸々の点で太鼓判押したいくらいです。(時にはスイッチを入れてしまうことで、また時には読者が本を開いた時点で)異界に踏み込んでしまっているはずなのに、どうにも日常的だしどうにも粘膜的。