バルタザールの遍歴

バルタザールの遍歴 (新潮文庫)

バルタザールの遍歴 (新潮文庫)

 絶対好みだから読もう読もうと思って積んだままになっていたのをようやく読んだ。で、やっぱり好みだった。最近は自分の嗅覚が(自分のためだけに限っては)結構信頼できるものになってきた気がする。ちなみに、この本俺は新潮文庫ので読んだけど、今は文春文庫版のほうが手に入りやすいみたい。
 オーストリアの貴族である双子のメルヒオールとバルタザールが辿る運命を、第二次大戦期のヨーロッパを背景に描いた作品。ただ、ひとつ特殊なのはメルヒオールとバルタザールが一つの体の中に共生していること。だから一人称も基本的に「私たち」。んで主に書いてるのはメルヒオールで、彼が右手で書いてる間バルタザールは左手で酒を飲んでいたりする(笑)。そしてたまにバルタザールも語りに割り込んできたりするところが面白い。
 この本を読んだほとんどの人が抱くであろう感想を俺も抱いたので書く。「日本人離れ」してますこの小説。それは別に海外の方が優位だとかそういうことではなく、舞台にも人物にも何もかも全く日本が関係ない小説を日本人がここまでしっかりと書けるのか、という意味。文化的背景とか何やらかにやら、不思議なくらい違和感がない巧みな筆致なんだよなあ。これドイツ人が書いたって言っても大概の人は信じると思う。かなりの知識量、筆力なのは間違いないっす。これを20代で書いたってんだからねえ…。若干ペダンチックな香りが強いけど、それをこうも堂々と地力を見せ付けられる形でやられたら全くイヤミを感じないです。
 それでいてちゃんと、充実したエンタテインメントになってるからいい。面白いっすよ単純に。空気に馴染めさえすれば、するする読み進めてしまうはず。まあ好き嫌いは分かれるタイプの作品だとは思うけどね。
 基本的にメルヒオールが書いてるのに「バルタザールの遍歴」なんだよな。まあほとんどいつも二人は一緒にいるわけだけど、あえてバルタザールをタイトルに持ってきたのはなんでだろう。それとも繋がるかもしれないが、この作品はあくまでメルヒオールの視点から書かれているんだよね。彼ら二人は大体において感覚を共有してるわけだけど、ちゃんと別々の人格なんだよね。それでいて二重人格じゃないし。まあこっから先はネタバレになるから書かないけど(今更何を言う)、バルタザールが書いた「メルヒオールの遍歴」を読みたいなあ、とか思ったよ。あえてそっちのストーリーを事細かに書かなかったところにも作者の意図が何かありそうだが…。
 メルヒオールとバルタザールはお約束のように陰陽に分かれてはいないところもうまい。この小説ではこの二人を完全に二項対立として捉えるのは違和感がある。よくある「分身」の型をあえて避けてるようにも思えるな。そして彼らが自分のアイデンティティについて「僕は一体誰なんだ!?」とかいう疑問を全く持たないところも妙な説得力がある。そういう問いは普通の人が、もし自分がそうなったらそう考えるだろうと想像した時にこそ浮かんでくるものだったりして。それを使ってアイデンティティの問題を考える分身物語もありそうだけど、今作の主眼はどうやらそこにはないようだし、そのおかげでこの双子がえらく自然。