加守田章二展

 というわけで、昨日行った加守田章二展@東京ステーションギャラリーの感想を。昨日の日記では加守田の字が間違ってたね…。直しとこう。
 夏に行った八木一夫展のおかげで陶芸も面白いものがあるのだなあと思った矢先にタイミングよくこの展示が開催され、その広告を見てこれは多分好きだなと予感。どうにかこうにかギリギリで滑り込みました。結論から言うと、すごく良かったっす。明日までなので皆さん是非駆け込みましょう(笑)。
 八木一夫の「オブジェ焼き」みたいなもんなのかなーと思って第一展示室に入ると、思いのほか質実剛健な壷とかが並んでてちょっと意外に思った。ものすごくしっかり作られていると感じさせるものが多い。これほんとにきっちりシンメトリーなんじゃないのかって思うような。でも陶器以上のものではないなあと感じつつ続きを見ると、1967年を境になにやら作風がガラッと変わっている。陶芸という意識をしっかり保持しているようなそれ以前の作品と比べると、だいぶ揺らぎが見えるようになった。それはまずフォルムが前と比べて少し均整を崩し始めたところにまず感じられる。例えば68年作の「銀陶花瓶」など。それは下手になったとかそういう印象ではなく、何か作る上でのロジックが変わったことを鑑賞者に伝えるような揺らぎ。
 その感覚が第二展示室に置かれている作品を見てさらに具体化する。全体のフォルムのみならず、表面の造りが独自に動き始めてるんである。まず曲線彫のシリーズ。陶器全体に波打つような規則的な曲線が彫られ、その陶器自体の形もシンメトリックな基本構造は保ちつつ所々滑らかな凹凸が形作られている。しっかりと秩序は保ちつつも、それに微妙な波を加えることで、非常に端正なスリルを感じさせる作品に仕上がっていて、一気に引き込まれた。真っ白いシルクの裏で静かに何かが蠢いているような緊張感がある。他にも同様の揺らぎを、彩陶などの形でも表現していて、もうすっかり気に入ってしまったっす。
 他に参照するサンプルが頭の中に無いので八木一夫と比較して考えると、二人とも陶芸という枠からだいぶ自由に創作していた人だけれども、作品は結構趣が異なる。八木一夫は全体の造形、それによって生まれる空間に意識的だったとすれば、加守田章二はテクスチャー、造形が形作る平面のリズムに意識的だったんじゃないかなと思う。それとも関係するかもしれないけど、八木の作品は非常に西洋的な文脈を陶芸に投入することで新たな段階へ踏み出しているように感じるけど、加守田の作品はどこか非西欧美術的で、何かしら土着的な要素が作品に表れているようにも思えた(こういうと西欧=文明、非西欧=土俗みたいな意識の構図を持っていると思われそうだが…)。どこかの遺跡から出土したようなざらついた妖しさを感じる作品もあるし、中南米プリミティヴ・アートにも通じるような紋様が用いられた作品もあるし、後期の作品は鮮やかな色使いの中に日本的な香りを漂わせていもする。それでいて全体のフォルムは八木作品の方が奔放で、加守田作品は非常に端正。面白い対照を成しているなあと思う。