ギュスターヴ・モロー展

 では本日行ったモロー展。友人からタダ券をもらったから使わずにいるのももったいないと思い駆け込み。もともと好きな画家かといわれるとそうでもないのだが、なかなか興味深く見ました。これも明日までなので興味ある方はダッシュ
 扱う題材がほっとんど全部非現実なのがやりすぎ感漂ってて面白い。材は神話、聖書などのの人物・出来事ばかりで、市井の人々を描いたものなど全くない(笑)。材の取り方も、彼自身の個人的な妄想から生み出されたものではなく、きっちりと伝承されてきた基盤があるものからなので、いかにも「幻想的」。まあそこがあまりはまれない原因でもあったと思う。でも、展示を通して見て、彼の幻想に対するスタンスの節操のなさが結構興味深いなあという印象を抱く。
 具体的には、サロメを題材にした有名な「出現」を見たときに、その彼の節操のなさを強く感じた。洗礼者ヨハネの浮かぶ首と向かい合うサロメ、という図が中心にあるわけだが、その背景に、妙に東洋的なモチーフをかたどったような装飾が、セル画を上から重ねたように上書きされてるんである。写真で見るとあまりよくわからないかもしれないが、実物を見るとその異様なタッチの違いに驚く(そのズレがこの絵独特の妙にギラついた空気感を生み出してるようにも思うが)。こうも大胆かつ無邪気に異質なものを一つの画面の中に並べてしまうところに、彼の意識が表れているように思う。彼の中では、神話も聖書も東洋(彼から見たら夢想すべき対象であっただろう)も、全て幻想という次元の中で等価に存在しているんじゃなかろか。普通はそれらの題材を並べた時に、大抵の人はそこに混ぜることの出来ない質の違いなどを感じると思う。けれども、モローは幻想という鍋の中でそれらを混ぜこぜに出来てしまうらしい。神話や聖書などの西洋に根を持つモチーフを描いているにもかかわらず、そこに表れる人物の服装が東洋的装飾で彩られていたりすることはその表れなんじゃないかと。そういう意味での節操のなさは、見ていてなかなか面白かった。「彼は歴史画家であることを自認していたが、現在では象徴主義の画家として受け入れられている」というような説明があったけど、確かに納得。ある種唯美主義的なとこがないとこういうことは出来ない気がする。
 作品によって全然タッチが違ったりもするから不思議。全体が水でぐずぐずに溶けて流れたような輪郭のハッキリしない筆致で描かれているものもあれば、「エウロペの誘拐」のようにジャン・デルヴィルばりに鮮明に人物を描いているものもあったり、などなど。ひょっとしたら時系列に沿って描き方が変わっていったのかもしれんけど、これらのタッチをもし彼が同時に使っていたなら、なかなかに器用な人だなあ。一つのモチーフ、例えばヒュドラヘラクレスの対決などを、異なるタッチで描いていたりもするので、見比べると全然違って面白い。何故こういう風にタッチを使い分けたんだろう?
 直接的な描写をする人だなあとも思った。レダと白鳥に化けたユピテル(ゼウス)を描いた作品とか、白鳥が明らかにやらしい(笑)。他の画家がこの場面を描いた作品も前に見た気がするが、それはモローの作品みたいに白鳥がレダに絡みついたりはしてなかったぞ(笑)。他には「ユピテルとセメレ」で、セメレが漫画みたいな驚き顔をしていたりとか。たまにこういう、幻想の癖にヘンに現実っぽい作品があったりするのも興味深かった。