マウス

マウス―アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語

マウス―アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語

 昨日渋谷のブックファーストで2時間くらいずっと読み耽ってしまいました。作者がアウシュヴィッツを生き延びた父に戦争時の話を聞き、それを漫画にしていくという話。ずしりと響きます。
 この作品でまず特徴的なのは、人物の顔が人種ごとに動物になぞらえられて描かれていること。ユダヤ人はネズミ、ポーランド人は豚、ドイツ人は猫、といった具合に。最初この設定を知ったときに、ちょっとメトニミーとしては安易過ぎやしないかとか、その仮面が持つイメージに見方が大きく引っ張られてしまう(被捕食[ネズミ]/捕食[猫]の構図、ポーランド人蔑視ととられる可能性など)危険性だとか、構図を明確にしてはっきりと視覚化することでホロコーストの悲惨さを効果的に伝えられはするかもしれないけど逆に大体の人がイメージとしては知っているその悲惨さに具体性を加えるのみで終わってしまうんじゃないかというような、色んな危惧を正直抱いていた。でもそれは杞憂に終わった、と言っていいかなと思う。それは上に挙げたような問題がドラマティックなやり口で解決を見たというところもあるし、問題だと思っていた事が問題ではなくなったからという理由もある。
 前者についてだけど、先ほど書いた被捕食/捕食の構図を意識に入れつつ読み進めると、その構図が崩れる場面がよりグロテスクに映る。ナチスに従ってユダヤ人を取り締まる側に回ったユダヤ人警察がそのいい例。ネズミを直接迫害するのは猫だけではない。食われたくないがために別のネズミを猫の口に差し出すネズミもいる。この仮面のおかげで、非人間的な状況に追い込まれた時の人間の行動がより縁取りの深い闇を持って見えてくると思う。
 後者について。実際にそれを体験した人の目を通した非常にミクロな視点からホロコーストを描くことによって、その悲惨さが前景化されるわけだけど、その結果俺に見えたものは「それのみで終わった」と簡単に片付けられるようなレベルのものではなかった。一応今までナチスホロコーストの中でどのようなことをやったか、ということは色々見たこともあるし、知識としてもある程度は知っていたけど、このようにまざまざと詳細に一人の具体的体験として見ていくと、その恐ろしさに背中がうすら寒くなる。「もし自分がこの状況に放り込まれたとしたら?」という問いを、全ての読み手の心に浮かばせるような迫真性がこの作品にはあると思う。
 その問いとも関係してくるけど、作者の父親が助かったのは、語学を含めた様々な技術を身につけていたこと、体が丈夫だったこと、時に非常に現実的な打算を働かせる判断力があったこと、そして相当に運が良かったことという、掛け合わせると天文学的な数値が出そうな確率を潜り抜けたからであって、作中には彼とその確率に途中で負けてしまった者との分かれ道が非常に数多く出てくる。もしも自分がこの時代のユダヤ人だったとしたら、ほぼ間違いなくガス室に消える運命にあっただろうなあ…。
 あとこの作品がさらに深みを獲得している理由は、この父親が語るホロコーストの話に加えて、彼とそれを聞き出す作者やその周辺の人を取り巻く人間模様ももう一つの話の軸として描いているところにあるんじゃないかと感じる。父の話しか書かなかったのであれば、彼は「ホロコーストを生き延びた人物」として英雄的な意味合いを帯びる可能性があるが、そこからひとつフレームを外へまたいだ次元の話を書くことによって、彼もあくまで一人の人間であるというリセット効果がかかる。父親は、完璧なスーパーマンでは全くない。物凄くケチで神経質で、一緒にいると息が詰まってしょうがない人物というように描かれている(ここはそこまで脚色が施されていないと信頼したい)。それに彼は、ユダヤ人であるというだけでドイツ人にあのような恐ろしい目に遭わされたにもかかわらず、黒人を差別するのである。人種で差別され迫害された=アンチレイシストになる、という、普通意識しなきゃ疑問を持たないような等式が崩れることによって、妙にこの父親がキャラクター化されていない生身の「人間」であるような説得力が生まれているところが、この作品が普遍性を持ちうる根拠のひとつになるんじゃないかと思う。ここまで読むとこの父親がマジで嫌なやつなんじゃないかと思われるかもしれないが、普通誰にも嫌な面はあるしいい面もあるわけで、なんかあんまり憎めない。そのあたりの描き方が非常にリアリティがあるんだよなあ。それは父親に限った話じゃなくて作者やその他の人々にも言えることだけどね。
 他にも、作者が父親を理解する過程としての物語っていう側面もこの作品は持ち合わせてるけど、長くなったのでこの辺で止めときます(笑)。