生の芸術 アール・ブリュット展

 銀座のハウス・オブ・シセイドウにて。タダなのが素晴らしい。このクオリティなら金払っても行くのに。まあここに行くまでの目印がコーチだとかヴィトンだとかだから土地にはあまり縁がないけど(笑)。これも本日最終日。
 アール・ブリュットは、正規の芸術教育などを受けていない、俗に言う「芸術」の周縁にいる人たちが作り出した作品のことをいうとのこと。実際、精神病患者や霊能とかに走った人たちが多い(中には普通に社会生活を送っていた作り手もいるみたいだけど)。おかげで、どこかしらオブセッシブな作品が多いっす。先月の芸術新潮で特集組まれてたので、ある程度予習した上で観たわけだが、初めて観た時のインパクトを減じた可能性はあれどその分作品に向き合うスタンスがはっきりしてよかった気がする。
 芸術と呼ぶにはちょっと素朴すぎたりまとまりがないかなーと思うものも多少あったが、逆にその次元を突き抜けて異様な世界に達している作品がこれほどまでに多いのか、とも思う。アドルフ・ヴェルフリ「ブレムガルテン城」とか、本当にすげえなあと。世界を全て包み込むようなスケール、同時に偏執狂的な細部は、散漫なところが全くなく凄まじい密度で凝縮されていて、圧倒された。人間をここまで加速させるものはなんなんだろう。ヘンリー・ダーガーもねえ、延々とアレだものねえ(笑)。脳内宇宙が個人的・個性的過ぎて他のどこにもないせいで、観る人の頭の中に勝手に居場所を作って居座ってしまうという、天然のパワーみたいなものを思い知った気がする。
 個人的・個性的と書いたけど、特定のモチーフへの異常な執着は大体のアール・ブリュット作品の共通点として挙げられるかなと。それは先ほどのヴェルフリのような空間恐怖的な細部への執着や、ダーガーのような個人的な嗜好が暴走したような特定の対象への執着がある(両者を同時に備えているものも多数)。前者の面で他にすごかったのが、オーギュスタン・ルサージュ。昔教科書で習ったミニアチュールをさらに超えるような精密な紋様を延々と規則的に描きまくっている。あとはエドモン・モンシェルの、全面が大小さまざまの顔で埋め尽くされた絵とかもキテたなー。後者の面では、アレクサンドル・ロバノフがやはりヤバイ。ひたすら銃、銃、銃。
 でも、これらの騒がしい作品の中で、奇妙に静かな作品もたまに見受けられる。カレル・ハヴリチェックが個人的にはその極北。白の真ん中に森の様な赤のラインがぼうっと入っただけの背景があり、その前に影が引き伸ばされたような漆黒の、ただ顔が陰影のみでわかるような馬と人間が、ぬあっと立ちのぼっている絵。この闇の深さは、結構しゃれにならない。孤独と不安を感じる芸術作品は結構あるけど、ここまで絶望的なものはあまり観た事がない。恐いなあ…。あとアッティロ・クレセンティという人の作品は、線があまりに痛々しくてぞっとした。
 そんな中、アナ・ゼマンコヴァという人の、花をモチーフにした作品は、色やフォルムがかなり美しくてほっとしたなあ。こういう優しい作品を作る人もたまにいるみたい。他には、日本の坂上チユキという人の繊細な描線や、オーギュスト・フォレスティエの木材や廃物を組み立てて作った小さな像などに、どことなく同様の優しさを感じた。
 しっかし、何かを作るっていうのは人間の精神の根っこの方に備わっている要素なのかなあ?彼らは、なぜこのようなものを作り出したんだろう。