アウグスト・ザンダー展

 今のうちに感想を書いてしまおう。ドイツの写真家アウグスト・ザンダーの、「20世紀の人間」という肖像写真シリーズを展示したものです。
 写されてる人は『農民』『職人』『女性』『階級と職業』『芸術家』『都市』『最後の人々』というようにカテゴライズされていて、各写真のタイトルも被写体の個人名などはほとんど出てこず、ただ「ボクサー」「菓子職人」「中産階級の家族」「失業者」などというような形になってる。ちなみに『最後の人々』のカテゴリーは愚者・病人・狂人・死者を写したものであるらしいのだが、これは展示されていなかった。残念だなと思ったけど、このシリーズのネガの多くが火災で失われていたようなので、このカテゴリーの写真はひょっとしたらそもそもあまり残存していなかったのかもしれないっす。
 んで、感想。カテゴリーを見て、対象を完全にパーソナルな個人としてというよりは、社会の中に生きる人間の代表として撮ったシリーズだろうかと思ったし、その被写体が所属するカテゴリー間には実際、貧富の差や性差、肉体労働と知的労働という差などの、様々な違いがある。でもその差が、撮っているアウグスト・ザンダーの中では貴賎や優越感・劣等感・哀れみなどというヒエラルキー的な価値判断とは結び付いていないように見えるところがいいなと。彼の写真の中には、そういう価値判断を助長するような脚色が全くない。例えば、上流階級の人を優雅に写るように撮ったり、肉体労働者の姿をさもキツイ仕事に従事しているのを強調するように撮ったり、失業者をいかにもお金がなくて苦しそうな人物として撮ったりはしていないように思える。実際上流階級の人々が優雅に見えたり、肉体労働者の仕事がきつそうに見えたり、失業者がお金がなくてしんどそうに見えたとしても、それはあくまで被写体そのものが撮られた時点で備えている性質であって、写真家個人の価値観というフィルターは全くかかっていないようなポートレートになっているのがすごい。写真は一見最も客観的な媒体であるかのように見せて、その裏に透ける撮る者の主観がなまじ客観的なとこからスタートする分最もはっきり出る表現形式である気がするのだけど、ここまでフラットな視点を感じさせる写真はなかなかなさそうだなあ。
 もちろん、このカテゴライズのやり方や、シリーズを構成したこと自体に写真家の価値観はあらわれてはいるし、そこが出発点じゃないと記録や芸術としてうまくいくはずはないのだが、当時のドイツ、ひいては「20世紀の人間」の姿をありのままに取り込んで写し出すという目的の、「ありのままに」という部分がかなり成功してるように思えるから、自分はこういう感想を抱いたんじゃないかなと。
 個人を描くというより社会を描くという目的のシリーズではあるけど、その要素となるそれぞれの個人の顔がまた味があるのがいいなあ。見ただけでその人がどういう人間かわかるような気にさせる写真。(個)人への興味、というのも彼のモチベーションの中にあったんじゃないかと感じさせられます。
 んでお約束っちゃあお約束、彼の写真が表紙(そして作品にも大いに絡むらしい)になってるリチャード・パワーズの「舞踏会へ向かう三人の農夫」を載っけときます。まだ読んでないと言ったら同行者に「とにかく読め、つうか卒論書くまでに読みたまへ」という指令を受けたが、無理です(笑)。でもこの展示見て尚更興味出たので、卒論終わったら読み始めます。

舞踏会へ向かう三人の農夫

舞踏会へ向かう三人の農夫